【「吾輩は猫である」はどんな話?】あらすじや作品の魅力を紹介
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はじめに
誰もが耳にしたことある「吾輩は猫である」は、
小説家である夏目漱石によって書かれた長編小説で、1905年に発表されました。
この作品は、珍野(ちんの)家で飼われている雄猫が語る人間観察日記です。
作品内容を知らない人でも「吾輩は猫である。名前はまだない。」という有名な書き出しはご存じの人も多いはず!
今回は、作品の内容を知らない人のために「吾輩は猫である」のあらすじや作品の魅力を紹介します。
※本記事は作品のネタバレを含みます。あらかじめご了承ください。
「吾輩は猫である」のあらすじ
あらすじ①
物語は、珍野(ちんの)家で飼われている雄猫が語り手になって進行していきます。
彼に名前はなく、自分のことを「吾輩」と呼んでいました。
捨て猫だった「吾輩」は、ある日中学校の英語教師をしている「珍野 苦沙弥(くしゃみ)」に拾われて、その家に棲みつくところから始まります。
苦沙弥は変わり者な上、お腹が弱く、ノイローゼ気味で、なにかと苦労が絶えない人物でした。
※苦沙弥は漱石自身がモデルとされています。
あらすじ②
吾輩は、珍野家の隣、二絃琴(にげんきん)の師匠のところで飼われている雌猫「三毛子」に恋をしていました。
しかし、その恋が実る前に三毛子は風邪をこじらせて死んでしまったのです。
それ以来、吾輩は哲学的になり、珍野家で暮らしながらさまざまな人間と出会う中で、彼は人間や物事を注意深く観察し始めます。
- 「人間は脚を4本も持っているのに、2本しか使わないのは贅沢だ」
- 「誰のものでもない地球を分割して、勝手に所有地だと主張するのはおかしい」
- 「伸ばしたままにすれば良いのに髪をわざわざ整えるなんて不思議だ」
猫である吾輩の視点から見た人間は、実に変な生き物だったのです。
あらすじ③
その後、苦沙弥の元教え子2人の結婚が決まり、珍野家では内祝いが開かれていました。
吾輩は胃が弱っていた苦沙弥の晩年を考えた結果「死が万物の定めならば、自殺とは賢い行為なのかもしれない」と悟るようになりました。
そして、悟りに浸って油断していた吾輩は、なんと人間が飲み残したビールを舐めて酔っ払ってしまい、水瓶に落ちてしまったのです。
いくらもがいても、どれだけ爪を立てても水瓶からは脱出できません。
吾輩は抵抗するのを諦め、自然に身を任せることにしました。
最後に「吾輩は死ぬ。死んでこの太平を得る」と言い残し、吾輩は水の中に沈んでいきました。
「吾輩は猫である」の魅力
人間の世界が猫目線で語られている
「吾輩は猫である」の魅力は人間の世界が猫目線で語られているところです。
吾輩猫独自の目線で、苦沙弥家とその周辺の人間たちの生活や行動を観察しています。
現実世界と違うところは、吾輩が人間の会話を理解している上、心の中まで読み取ることができるという設定になっているところです。
そのため、吾輩を通して人間の本音と建前を知ることができる作品に仕上がっています。
そして作品を読むことで、読者は人間社会を客観的に見れたり、自分の言動を反芻できるようになる訳です。
夏目漱石は、作品を通して当たり前だと思われている倫理観や価値観を覆したかったのかもしれません。
個性的な登場人物
作品の魅力はなんと言っても登場人物たちが織りなす人間模様と、ユーモアあふれる会話です。
主人公の珍野苦沙弥は変わり者な上、お腹が弱く、ノイローゼ気味で、なにかと苦労が絶えない人物です。
彼の友人にあたる迷亭は、美学者なのにでたらめばかり言う人物で、その饒舌なトーク力が物語の面白さをより濃くしています。
金田家の母親である鼻子は横柄な態度と大きな鼻が特徴です。
これらの登場人物たちの掛け合いは軽快で、喜劇のような面白さがあります。
しかし、その掛け合いの裏には人間の弱さや社会の矛盾が潜んでいます。
もしかすると、夏目漱石は個性豊かな登場人物を通じて、人間や社会の本質描きたかったのかもしれませんね。
おわりに
今回は「吾輩は猫である」のあらすじや魅力を紹介しました。
猫が人間社会の縮図を語る様は皮肉かつユニークです。
今もなお愛されているのは、夏目漱石の想いが時代を超えて読者に受け継がれているからかもしれません。
内容が気になった人はぜひ読んでみてくださいね。